名曲「月がとっても青いから」で一世風靡

歌手 菅原都々子さん

歌謡史に残る名曲「月がとっても青いから」で一世風靡

◆自然の景色に惹かれて相模原へ

私が相模原に移り住んだのは昭和35年でした。それまで住んでいた杉並の家の周りもだんだん家が建て込んできまして、父も年をとって故郷が恋しくなり、もっと自然のある場所に住みたいと思っていたところ、たまたま出入りしていた植木屋さんがこの土地を捜してくれたのです。
  来てみると、真正面から丹沢の山が見えて、なんとなく青森の八甲田の山に似ているような気がして,父はとても気に入り、即、譲ってもらいました。
  ところが、そこの土地というのが実は一級農地ということになってまして、住宅を建ててはいけない場所だったんです。その時父は、「何も子供達に残してあげられるものがないから、せめて家くらい残したい。この白髪頭が2~3年刑務所に入ればすむだろう。」と笑って、一方的に家を建ててしまいました。色々と問題になったようでしたが、最後は始末書を書いて、家はどうにか残してもらいました。

◆我が家は小動物園

昭和30年「月がとっても青いから」が大ヒット

昭和35年頃のこの辺りというと、とにかく麦畑と田んぼばかり。桑の木も多くて,よく山の方へ行っては実を採ってきて、ジャムにしたりしました。もう慣れたもので、この木の実は甘いとか、こっちは水気が多いとか、見るとわかるんです。我が家の周りは、家も何もありませんでしたから、小田急線の電車の中からでも、うちの家がポコン、と見えたものです。近くのお米屋さんから、「この辺は狐とか、今でも出るよ!」なんて、当時聞かされました。
  父を始めとして,とにかくうちの家族は山とか自然が大好きでした。「一緒に山に行こう」と声をかければ、すぐ集まるくらいです。私は、生き物が大好きで、家の中は庭も広く、まるで小動物園みたいでした。
 犬は、何年間もいない時は無かったですね。セント・バーナード、グレートデンとか、ポメラニアンとか。その他、うずら、鴨、アンゴラ兎、山羊など。鶏など20羽くらいいました。兎も山羊も、庭で いつのまにか子供を生んでいるんです。
上野動物園の古賀園長さんという方が、「キョン」という中国産の小さな小さな鹿をプレゼントすると言って下さったんです。見るからに可愛らしくて、欲しくて堪らなかったんですが、仕事で家を空けることも多いし、そんな高価な動物を頂いて、もしもの事があったら、と思いお断りしました。私のマネージャーは、私がいつ馬を飼うと言い出すかと、ハラハラしていたそうです。

◆身近な商店街

昔は、いくつかのお店が家まで注文を取りに来て、届けてくれていました。覚えているのは、魚賢さん、鶴が丘米店さん、本杉のお肉屋さん、それから今のサンクスの所にスーパーがあって、そこの八百屋さんも来ていました。この街に住んで42年になりますが、昔よりも人の数も多くなりましたし、活気があっていいと思います。でも家が増えて景色も本当に変りましたね。
特にこの数年は。それにしても、お菓子屋さんとか、洋品店さんとか、私の好きなものを扱うお店が多いですけど、同じ通りに同業種のお店がこんなにあって、よく成り立っていらっしゃると感心しています。 これからも、気軽に利用させていただきます。 ( 談話 )

菅原都々子 プロフィール

昭和2年: 青森県十和田市に作曲家・陸奥明の長女として生まれる。幼少の頃より天分に恵まれ、古賀政男に歌唱力を認められ養女となる。
昭和2年: 10歳の時テイチクレコードより「お父さんの歌時計」でレコードデビュー。
昭和6年: 「憧れは馬車に乗って」「江ノ島悲歌」「連絡線の歌」がミリオンセラーの大ヒット。テイチクレコードの黄金時代を築く。
昭和7年: 第一回NHK紅白歌合戦に出場。  
昭和30年: 父・陸奥明が作曲した「月がとっても青いから」が空前の大ヒットに。累積で100万枚売り上げる。 当時のレコード市場での100万枚は、現在の市場規模では3000万枚に匹敵する。今も多くの人に歌い継がれる。同年 日活映画「月がとっても青いから」にフランキー堺と共に出演。
その後、コンスタントな歌手活動を続け現在に至る。
 その間、日本レコード大賞功労賞受賞、郷土発展における文化的功績が認められて青森県からは青森県褒章、出身地十和田市からは十和田市市民文化賞を授与。平成6年頃より始めた絵手紙個展を銀座で開催。大盛況を得る。平成13年 歌手生活65周年を記念した新曲「りんごの花が咲く頃は」(テイチク)をリリース。 新橋ヤクルトホールにて記念リサイタルを行う。  現在に至るまで総発売数317曲。映画出演約10回を数える。

■インタビューを終えて■

平成13年、菅原さんの半生を描いたドキュメンタリーが出版されました。(「月がとっても青いから」;(株)にじゅうに刊) そこには、実に劇的な生涯が記されています。けれどもそれを感じさせない、上品で静かな方でした。
  又,今の相模台小学校の校歌は、お父上の陸奥明さんが作曲されました。当時PTA会長だった郵便局長の安藤さんが頼みに来られたそうです。「いずれ自分の孫がお世話になる事だから」と快く引き受けられたところ、実はご自宅は相模台小の校区ではないことが後になってわかったということです。意外なところにご縁があるものですね。  5年ごとに区切りとしてリサイタルを開かれ、平成13年秋もステージに立たれたとのことですが、半世紀以上前から歌っておられるとは思えないほどの若々しさです。「健康の秘訣は何ですか?」とお聞きしたところ、「食べたい物を食べることと、駅までは必ず歩くようにしています。」とのこと。時間があれば山や草花を見て歩き、個展まで開かれたという絵手紙を描きながら、素朴で心豊かな毎日を過ごされている様子が感じられました。 (担当者・K)