清兵衛新田の狐

 清兵衛新田は昔でいう一四二町歩にもおよぶ相模野の北端を占める大原野で、狸や狐がわがもの顔に巣を作っていただけに、その開発はたいへんなものでした。
しかし、仕事はどんどん進み、一四年目の安政三年に検地が行われ、年貢の対象になりました。現在の清新にその名を留めています。
そんな土地ですから、つい近年まで狐と狸の話は聞かれていました。特に比丘口(びくぐち)にたくさん狐がいて、よく狐つきが出たそうです。
それはこのあたりの部落に「はやり神」(信心する者)があって、よく狐を使ったからです。近辺の法印(坊さま)が祈ってもだめで、小山の飯綱権現の大法印が十日間祈り、狐を青い玉にして穴の中に封じ込めてしまいました。 その供養をするために松魚節を樽に入れ、「けし」を一緒に入れて穴の中に投げ込みました。その穴は氷川神社の前にあって、杉の木を植えました。そこを掘ると狐がまた出てくると言われたものです。
昭和三六年の秋にその側の梅ノ木が枯れたので、切ろうか切るまいかということになったが「狐が封じ込められた穴が近くにあるから、切ってはまた狐が出てあぶなかろう」ということになって、そのままにしたということです。

文・絵:いちむら あきら
座間美都治
相模原民話伝説集より