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サウザンロード、相模原に縁りのある著名人の方からのメッセージ。

日刊スポーツ 野崎さん

『ニュースステーション』『やじうまワイド』でおなじみ、太いまゆげのスポーツ記者


住民との心の触れ合いを大切に◆◆◆

 私が相模原(相模台)に住んだのは2回。1度目は1966年(昭和41年)から1970年(昭和45年)の5年間。サラリーマンだった亡き父が定年を迎え、東京・大森の社宅を出ることになりました。そこで、私の友人が懇意にしていた建築屋さんの勧めで、 小さな家を購入したのです。  今では50万都市になった相模原市ですが当時の人口は20万人台。雑木林を切り開いた原っぱに立っていた我が家の前は、一面が すすきが原。秋になると、くつわむしが「ガチャ、ガチャ」の大合唱でした。リスが顔をのぞかせることもありました。まるで宮沢賢治の世界が展開していたのです。
 私は、すでに日刊スポーツ新聞社に入社していました。通勤に2時間かかり、苦労しましたが、のどかな生活でした。それでも、相模台団地も完成し、小田急相模原駅前から国立病院までの商店街は、新しい住民にもやさしいお店が並んでいました。  私が両親に相模原に住むことを勧めたのは、名前の通り原っぱが続き、年を取ったとき、坂も無く、歩くのに楽だからです。そして、商店街も近くにあり、病院もあり、釣り好きのおやじには相模川もありましたから。  
 2度目に住んだのは、1975年(昭和50年)から1988年(昭和63年)まで。 結婚後しばらく、妻の実家の近くに住んでいましたが、相模原が懐かしくなり、また引越してきたのです。
 両親も年を取り、近くに居た方が、何かと都合が好いということもありました。  当時は、私もバリバリの野球記者となっていましたが、2度目に相模原にやってきたときは、東海大相模の全盛時代。 自宅の相模台団地から、チャリンコで原貢、次季巨人の監督に就任した原辰徳親子の取材をしました。我が家は「日刊スポーツ相模原通信部」だったのです。 今は、横浜の住人となっていますが、18年住んだ相模原は第2の故郷のような感じがします。今でも、母が相模台に住んでいます ので、時々、様子伺いに行きます。
町田や相模大野は、様変わりしましたが、相模原は今でも昔の面影を残していますね。  裏を返せば、余り発展しなかったということかもしれませんが、決して悪いことではないと思います。 バブルに乗って大型のスーパーやデパートが出来たとしても、今となっては、それが負の遺産となっている町も多いのです。  むしろ、これからは、昔のように「心の通う商店街」が求められるのではないでしょうか。
私の母も、足を悪くして、なかなか買い物に出られませんが、魚屋さんも八百屋さんも、お米屋さんも、買い物を自宅まで届けて くれると喜んでいます。 大型で格安のスーパーも、いいかもしれませんが、キューリ1本、トマト1個は売ってくれません。お客さん、ひとり、ひとりの ニーズと気持ちに応えられる、そんな商店街になって欲しい。母の住む相模台を訪ねるときこんな思いをしながらブラブラ商店街を歩いている私です。




野崎靖博のざきやすひろの横顔▼▼▼

1940年6月24日石川 県金沢市生まれ。61歳。同60年都立桜町高校から中央大学法学部法律学科入学。 同64年卒業後日刊スポーツ新聞社に入社。校閲部を経て、同68年野球部に配属。主にプロ野球記者として、大洋(現横浜)、巨人、西武など各球団を担当。その後コミッショナー事務局担当、遊軍記者を経て同80年12月野球部次長。同85年7月野球部長、同87年11月スポーツ部長、同88年編集委員となり現在に至る。この間、同88年4月よりテレビ朝日の人気番組「ニュースステーション」にレギュラー出演。毎週木曜日のスポーツコーナーに登場し、久米宏さんとの軽妙な掛け合いで「マユゲの野崎さん」として、お茶の間に親しまれていた。今年も「ニュースステーション」にゲスト出演するほか、同局の「やじうまワイド」の月、土曜日のレギュラーを努めている。 趣味 のラテン・パーカッションはプロ級の腕前。

'85年 ジャイアンツの監督一年目、背番号90時代の長嶋監督と、後楽園球場で。この写真をお持ちいただいた日に監督の突然の辞任発表があり、野崎さんもさぞお忙しかったのでは・・
'95年210安打を記録し鮮烈デビューしたイチロー選手と。